管理人プロフィール〜将棋上達への道
第2次ベビーブームの生まれ、♂ ここでは管理人である僕の将棋歴について具体的なエピソードを交えて紹介します。 将棋を覚えたのは小学生の頃でした。 家にあった将棋盤で「周り将棋」、「はさみ将棋」、「金(カネ)将棋」などをやっていたのが、 将棋に触れるきっかけでした。僕は将棋の駒というのは、このようにスゴロクのようなことをして 遊ぶためにあるのだとばかり思っていたのですが、実はそうではなくて、 きちんとした将棋という「ゲーム」があるのだということを知り、 父親に駒の動かし方を教えてもらったわけですが、当然それだけでは強くなれませんでした。 将棋に強くなるには定跡を覚える、各駒の手筋を覚える、詰将棋を解く、対局をする、感想戦をする、 強い人の対局を観戦するなど、様々な方法がありますが、いずれも全く縁の遠い話で、 唯一やっていたのが我流の対局です。 飛車先の歩をどんどん伸ばしていって飛車が成り込んで暴れる。 歩を打ってお互いと金を作って相手の駒を取り放題、自分の駒も取られ放題、 王手ではなく待ち駒を打つと「ずるいよー(ずりーよー、ずっちーよーとも言う)」という声が上がる、 負けると盤をひっくり返して駒をぐしゃぐしゃにして窓の外にぶん投げる、そういうヘボ中のヘボ将棋を指してきました。 親戚のいとこからは、持ち駒歩三枚の「歩三兵」という将棋で角を取られてしまうなど、 3手の読みすらできない、もうそれはひどいものでした。 要するに将棋の上達の方法を知らないばかりか、そもそも才能そのものが全くないということがこれでお分かりになると思います。 僕が小学生の頃の1980年代、将棋ソフトはありましたが、これも非常に弱くて僕でも勝てるほどでした。 ところが大学に入り、大学院生の頃、Windows PCが出現して、それと同時に久しぶりに将棋をやってみようと AI将棋という将棋ソフトを購入して対局したところ、全く勝てなくなっていました。 これが結構衝撃で、この頃から将棋の本を少しずつ買い始めるようになりました。 矢倉というのはよく聴くけど、どのような戦法なのかが気になり、序盤、中盤、終盤のそれぞれについて、 本を買って読み始めました。 このように僕の将棋の戦法の原点は矢倉戦でした。 故・米長邦雄永世棋聖が「矢倉は将棋の純文学」と言っていたように、矢倉戦は美しい矢倉囲いに玉を囲って、 飛車・角・銀・桂・香を総動員して無駄のない非常に美しい形で攻めの態勢を築くという、非常に格調高い戦法です。 当然、将棋の戦法としても難易度が高く、1手間違うだけですぐに作戦負けに陥るという危うさがあります。 僕はわざわざ難しい戦法をマスターしたかったのではなく、ただ単に矢倉というものに興味を持っただけのことで、 当然のことですが、本格矢倉の定跡を知らないまま対局しては勝ったり負けたりしていました。 最も得意だったのが矢倉棒銀戦法で、この戦法であればAI将棋の最高レベルにもごくたまに勝てるようになりました。 しかし人と対局する機会がなく、モチベーションは上がらない状況でした。 大学(谷川浩司九段のお兄さん、米長邦雄永世棋聖のお兄さんたちと同じ大学です)を卒業して就職すると、 寮生活になりました。同じ寮には同期が10人ほどいて、週末の夜に部屋で集まって酒を飲んでいたとき、 その中の一人が「だれか将棋やる人いませんか」と言ってきました。大抵は大学院卒でしたが、彼は学部卒で年下なので敬語でした。 僕が「まあ、やらないわけではないけど」と言うと、「それじゃ、一局指しませんか」と言ってきました。 「弱いけどいい?」と言うと、「それはこっちだって同じですけん、やりましょう」ということで対局しました。 前述したように僕は矢倉しか知らない矢倉バカで、相手が何で来ても矢倉に組むことしかできない人でした。 それを見てか、彼は米長流矢倉崩しをやってきました(当時はそのような戦法は知りませんでしたが、 後で本を読むと「あ、あれだ」と思い当たりました)。 正式名称は「後手米長流」と言います。彼は攻めっ気が非常に強く、どんどん攻めてきます。 僕は受け一方になり、今のような受けの力もなかったため、全くいいところがなくコテンパンにやられました。 「いやー、強いね、参った」と僕は言いました。 何と言うか、僕とは感覚の違う筋の良い手が10秒程度でどんどん飛んでくるのに衝撃を受けました。 「これが将棋が強いということなのか・・・」と。 「こりゃ、俺もちゃんと将棋を勉強しないといけないね」と僕は笑いました。 「いいっすよ、またやりましょう」と彼は言いました。 結論から先に言うと、僕はその後、気持ちを入れ替えて将棋を勉強し、 それから1年後、僕はその彼が全く勝てなくないほどに上達してしまいました。 会社の初期の現場実習でも、将棋ができる人はいないかと聞いてくる人がいて、 仕事中に一局指したのですが、これは相手の無理攻めを余裕を持って受け止めて、矢倉で端を破ってこちらが完勝しました。 実はこの現場にはもっとずっと強いという人がいて、「横歩取りとかやりますか」と聞いてきましたが、 横歩取り戦法など当時の僕には全く未踏の領域でした。彼は「地下鉄飛車」なども言っていて、僕にとっては初耳で、 そんな面白い戦法もあるんだな、と感心したのを覚えています。 僕は将棋が強くなるために、ネット対局をすることにしました。当時はJava将棋という対局サイトで、よく対局していました。 相手が違うと全く違う戦法で来ますが、何でもかんでも矢倉で行くのはダメなのではないか、 相手の角筋に玉を持ってくるのは危険なのではないかと思い始めました。 当時は「豆腐矢倉」という言葉を知らなかったのですが、僕の戦法がまさに「豆腐矢倉」そのものでした。 相手が矢倉で来てくれれば勝率は結構高いのですが、飛車を振られると勝率が低いことに気づきました。 自分も振り飛車を覚えるか、または対振り飛車戦の対策を練らないと、色々な相手にまんべんなく勝つことは難しい という事実に気づきました。 そのような意味で序盤作戦が肝心になりますが、何とか互角の終盤になったときに1手勝ちを収める終盤力をつけるのが 勝率を挙げる最も有効な方法だと思い、まず勉強の対象として選んだのは、谷川浩司九段の「光速の寄せ」シリーズでした。 これは非常によくできた棋書で、当時、終盤力が飛躍的に向上したのはこの本のおかげでした。 「光速の寄せ」第1巻は「振り飛車破りの巻」で、振り飛車の囲いの基本である美濃囲いの崩し方について、 相手の美濃囲いの形と自分の持ち駒、盤上の駒の種類毎に数々のパターンが載っていて、対振り飛車戦の寄せの力が相当につきましたし、 それに対する受け方も勉強できました。 その一方で序盤戦術を磨く目的で「羽生の頭脳シリーズ」は全10巻揃えただけでなく読破して定跡を覚えました。 特に第1巻の「急戦四間飛車破り」は繰り返し勉強して知識を定着させました。 相手の飛車を振る場所によって、先手後手ほぼ関係なく四間飛車なら舟囲いからの急戦、三間飛車なら居飛車穴熊、中飛車は臨機応変に対応、 というように自分の作戦を定着させ実戦で試して序盤、中盤の実力を付けていきました。 横歩取りも旧来の飛車切り定跡から4五角戦法、相横歩取りを覚えて後手番で試してみると、ほとんど皆が定跡の罠にはまってくれて、 連勝街道を突き進みました。 その一方で将棋の勉強を始めたばかりの頃は、奇襲戦法も少しだけ勉強しました。 奇襲戦法の代表格は「鬼殺し」と「超急戦石田流三間飛車」、そしてそれをさらにブラッシュアップした「升田式石田流」です。 これらについて攻めと受けの両方から勉強して実戦で試したこともありました。 寮生活で週末になると例の彼から「将棋指しませんか」と声がかかることが度々ありましたが、 半年後は既に互角か、僕の方がやや勝率が高くなっていました。 彼の無理攻めをしっかり受け止めて、こちらがゆっくり勝つという流れが多く、 また1手争いになっても、どちらが速そうかを見極めることができるようになり、1手勝ちが結構多くなりました。 「強くなりましたね」と彼は驚いていました。 その1年後、1年半後には僕は彼にとって全くかなわない相手になってしまいました。 その少し前から「将棋倶楽部24」というサイトを知り、そこに登録して指していました。 ここは級位者もかなりの実力者揃いで、終盤の自玉の危険を察知する能力もかなり高い人が多い印象でした。 当時、僕は6級1038点で、会社の仕事が大変で将棋の勉強をする時間がなかったこともあって、しばらくレーティング戦 (点数をかけた対局)は控えていました。 しばらくして職場の部署が移転したばかりの頃、僕は「将棋指し」としてブレイクしました。 僕の特技がピアノだということは皆が知っていましたが、将棋が第2の趣味という事実はこの時初めて知った人が多かったようです。 同じ系列会社の社員の中に将棋が強いと言われている人がいて、是非、2人で対局してみては、と職場の皆がすすめてきました。 彼は将棋の実力はアマ二段程度で、将棋倶楽部24では2級で指しているということでした。 職場の周囲の人たちも彼は一目置かれているようで、将棋の腕にある程度の覚えがある人でも全く歯が立たずズタボロにされる ということでした。そのような話を聞いてしまうと、僕も勝てる気がしませんでしたが、当たって砕けろの精神で 対局することになりました。 対局は将棋倶楽部24でネットで対局することになりました。職場の同僚・先輩たちはどちらが勝ったか、報告を楽しみにしていたようでした。 2001年5月頃のことだったと思います。その夜、彼との初手合いとなりました。 第1局目は幸運にも僕が先手番になりました。相手も居飛車で来たため矢倉に進め、相手の動きを見ながら棒銀で作戦勝ちを収めました。 そのまま端を破って相手に何もさせず一方的に勝ってしまいました。 「もう1局やりませんか?」と言ってきました。このまま引き下がるわけにはいかず五分の星に戻したいと思っていたのだと思います。 僕も快勝してもう1局指したいと思っていたところでした。 2局目は僕は後手番で横歩取りに誘導しました。定跡を知らないことにかけて、僕は相横歩取りを選びました。 この選択は見事的中し、8八角成、同銀、7六飛の相横歩取りに彼は7七歩と受けて(通常は7七銀で受けます。7七歩は では先手つまらないと「羽生の頭脳」に書いてあったのを覚えています)、彼は7四で飛車交換をした後、単に5五角と打ってきました。 定跡では4六角、8二角、同角成、同銀、5五角です。実戦では5五角、2八歩、9一角成、2九歩成、8一馬、3九と、同金、3八歩、同金、2九飛で 後手番の僕が勝勢になり、以後、彼は王手の連続で迫ってきましたが、余裕でかわして、最後は即詰みに打ち取りました。 第1局、第2局いずれも一方的な勝利で、点数も一気に上がりました。 「強いですね、参りました」と彼は言い、それ以上、対局する気にならなくなったようでした。 彼と僕とは同じフロアにいましたが、職場はやや離れた場所にありました。彼の職場ではその話題で持ち切りだったようです。 彼は「ケロケロにやられた、彼(僕のこと)は強すぎて全く手も足も出なかった」と言っていたようです。 「俺らが全くかなわない相手が全くかなわないなんて、彼(僕のこと)はどんだけ強いんだ。プロか。」と僕は職場の皆から、将棋指しとして一目置かれるように なり鼻高々でした。 その後は周囲にライバルになるような人は現れず、例の彼もその後、僕に対局を挑んでくることはなく、 ひたすらネット将棋を指していましたが、結構な勝率で勢いよく勝ち上がり、「将棋倶楽部24」では 一気に2級まで上がりました。 この後、僕は将棋に対するモチベーションを失い、また以前からのピアノ熱が上がってしまったため、趣味としての将棋は一旦封印 することにしました。将棋に費やす時間は人生の中で時間の無駄という認識になってしまいました。 時々、将棋倶楽部24に行って高段者の将棋を観戦することはありましたが、自ら将棋を指すことはなくなってしまいました。 それから数年の時を経て、事情により2度目の大学生活(医学)が始まりました。 入学後しばらくして座学が終わり臨床実習が始まったのですが、 実習中、男子ロッカーに将棋盤を持ってきた人がいて、同じ学年で将棋がはやりました。 その時、僕が将棋を指すという話も自然に広がり、対局を挑んでくる若い学生が現れました。 しかし僕はほとんど負けることはなく、対局後の感想戦でアドバイスを求められるなど、一目置かれる存在になりました。 同じ学年の将棋指しの1人に麻布高校の将棋部のエースだったというツワモノがいて、 この人とは対局したことがありませんでした。この人も僕と同様、他の学生と将棋を指していて、 誰にも負けたことがない人でした。 それでは同学年最強の2人で王者決定戦をやってみては、と皆がすすめてきました。 皆が見ている前での対局は緊張するもので、彼との初対局は後手番、横歩取りとなり、僕が相横歩取りに誘導して進め、 中盤にわずかにできたチャンスを逃し、敗戦を喫しました。 しかし彼にとって僕は他の学生と違ってかなりの手ごたえを感じたようで、その後、度々将棋を指すようになりました。 彼は将棋が強いだけでなく将棋界にも明るく定跡通で、かなりの将棋好きでした。 同じ居飛車党なので矢倉になることも結構多かったですが、矢倉戦では僕の方が勝率が高い印象でした。 これをきっかけに僕は将棋を再開し、わずかなマイブームとなりました。 しかし以前のように最新定跡を勉強するほどの熱意はなく、何となく慢性的な将棋ブームがずっと続いているといった状況で現在に至っています。 僕にとって将棋は第2の趣味という位置づけで、第1がピアノ、第2が仕事、第3が将棋、優先順位としてはかなり下がります。 しかし将棋の面白さに魅せられた人間として将棋とは一生付き合っていくことになりそうです。 今でも忙しい毎日の生活が終わって帰宅し、インターネットにつなぐと、まず将棋倶楽部24にアクセスして、 高段者の将棋を観戦しながら、買ってきた弁当を食べるというのが日課になっています。 このように将棋は僕の生活の一部になっている感があります。 人との対局はしなくなってしまいましたが、僕のこれまでの将棋歴を振り返ってみると、 ライバルの出現が、将棋を勉強するモチベーションを高めていたことが分かります。 将棋道場へは全く行かないのですが、インターネットではなく現実のライバルを求めて将棋道場に足を運んでみると 新たな刺激に出会えそうです。 遅まきながらこのようなサイトを立ち上げたのは、一弱小将棋指しとして、 自分の将棋観や将棋の面白さを皆さんと共有したいと思ったためです。 僕よりも将棋が強い皆さんにはあまり参考にならないかもしれませんが、 これもアマチュア将棋愛好家の1人の考え方として、楽しんでいただければと思います。
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